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「奥穂という場所、美しさと恐れが交差する世界」 2025-07-09
「奥穂という場所、美しさと恐れが交差する世界」
ムーンライトギア福岡の横山です。
去年は行かなかった北アルプス。かなり好きな山域があり今年、まだいったことがない新たなルートで計画中。今回は、2年前にいった畳岩の山行を振り返ります。

上高地の静けさをそのまま映しとったような透明な流れ。
水面は、まるで空が川底に落とした一枚のガラス。
その下に広がる白い砂利は、粉雪のようにキラキラと光り、思わず足を止めて見とれてしまう。
周りを囲む山々は、まるで優しい番人のように梓川を包み込み、
遊歩道をのんびり歩けば、大正池の静かな水面や、河童橋からのダイナミックな眺めが待っている。
このあたりは、自然と自分の呼吸がぴったり重なるような、そんな感覚になる。
そんな梓川に架かる河童橋は、上高地に行ったことがなくても、
きっと一度は写真や映像で見かけたことがあるはず。
橋の向こうに現れるのは、どっしりと構えた奥穂高岳。
穂高連峰の真ん中で堂々とそびえ立つ姿は、
僕にとって“山の王様”そのもの。
「好きな山はどこですか?」と聞かれたら、
迷わず「奥穂です」と答えるだろう。
標高3190メートル。富士山、
北岳に次いで日本で3番目の高さを誇るその山は、
ただそこにあるだけで、静かに人の心を揺さぶってくる。
でも、この山へ登る道のりは、決して手を抜けるようなものじゃない。
多くの登山者が選ぶのは、涸沢カールを経由し、ザイテングラートを上がる王道ルート。
ただし、時間がたっぷり必要。だから僕は、短い時間で行ける岳沢小屋を起点に登っている。
岳沢小屋からは2本のルートが伸びていて、
ひとつは「重太郎新道」。整備はされているけれど、
急登と岩場が連続する骨のあるルートだ。
登るたびに景色がドラマチックに変わっていくのが面白くて、気づけば息が上がりながらも笑っている自分がいる。
もともとこのルートは、前穂へ向かう道にあった一枚岩の難所を避けるため、
もっと多くの人が安全に登れるようにと、今田重太郎さんが熊や鹿の通った獣道を見つけて作り上げたもの。
紀美子平からの吊り尾根を含めて、
標高差約1700メートルを一気に詰めていくその道は、まるで山の鼓動に触れるような感覚すらある。何度でも登りたくなる、大好きなルートのひとつ。
そして2年前に選んだのは、もう一方のルート「天狗沢」。
地図では破線で示されているだけあって、こちらはかなり手強い道。
岳沢小屋から左手に入ると、まず現れるのは高山植物が咲き乱れる美しい花畑。
そこまでは穏やかで癒されるような景色が続く。
でも、そこから先が本番。ガレた急斜面が続き、岩が崩れ落ちる音に思わず足が止まる。
一歩一歩が、命を背負っているような感覚に変わる。
これまではずっと重太郎新道ばかりを選んできたけど、
今回は初めて、この天狗沢ルートを歩いてみることにした。
挑戦の匂いがする道の向こうには、どんな景色が待っているのか。
少しの不安と、大きな期待を胸に、足を踏み出した。
上高地から岳沢小屋までは2時間前後。
バスで朝5時に到着するので余裕を持って行ける小屋。


昔は晴れていれば泊まらずそのまま奥穂まで行っていたけれど夜行バスでしっかり寝れなくなってしまい、最近は岳沢で必ず一泊するようにしている。

この時の宿泊装備はMLDのFKT E-VENT BIVY、HMGのFLAT TARP 8.6" x 8.6”。昔あったキュムラスのシルクライナー、マットはTHERM-A-RESTのNeoAir XLite NXT RS。バックパックはPA'LANTE desert pack。2泊3日なのに43Lは容量が大きいとも思ったが食料に余裕を持っておきたかったのと福岡からの移動でヘルメットを外付したくなかったから。


翌朝、陽が昇る前に出発。花畑と呼ばれるエリアを抜けたら周りが明るくなってきた。
地図を見れば破線ルートだが岩肌には、黄色いペンキで描かれた〇印が所々に見て取れる。
見上げれば、空を遮るようにそびえる天狗岩。その存在感に、思わず背筋が伸びた。
だけど、印に頼るのはやめた。落石から身を守れそうな大岩の陰に身を置き、まずは立ち止まって地形を観察する。

天狗のコルの方向、畳岩のピナクルの位置、風の流れ、すべてがここでは手がかり。
焦らず一つ一つを確認しながら進んでいく。

右手にはスラブ帯、左手には天狗岩。まるで巨大な何かに見下ろされているような、不思議な“ぞわぞわ”が体を走る。
それでも天気は安定、歩みは順調。両側の岩壁がだんだんと狭まり、緊張が高まっていくのが分かる。


九州の山域では見たことのない、独特な傾斜のスラブが目の前に現れた。
「ここなら登れそうだ」と、そう思える寝た角度の岩を見つけ、手足を岩にかけて進み始める。
手がかりも足がかりもちゃんとある。
ただ、岩にはコケや泥がまとわりついていて油断はできない感じ。
久しぶりに、“怖い”という感情が、ちゃんと体の奥から湧き上がってきた。

だけど、その恐怖心をも包み込んでしまうような圧倒的な景色がここにはある。
それに怖いという感情を抱いている時は五感が冴える。
匂いや音といった視覚で捉えれない存在を普段より意識できるのも面白い。
岩とハイマツが混じり合い、風と太陽が織りなす光景。
それは、経験と準備を積んだ者だけに与えられる、自然からの静かなご褒美のようだった。

やがて、稜線に到達。ほっとしたのも束の間、現在地が曖昧だったので一旦「天狗のコル」方面へと向かう。
すぐに傾いた分岐標が見つかった。崩れかけた石積みの避難小屋跡。
その静けさに、時の重みを感じる。
いつから存在していて、いつ崩れたのだろうか、、、


ここからは稜線歩きが続く。
行動食をボトムポケットに詰め、少し息を整えた。
何度来ても、この場所には独特の緊張感がある。
だけど、手で岩を掴んで全身で前へ進んでいくこの感覚、
不思議と心は楽しくて仕方がない。
岩に触れた手に残る、粉っぽい匂いすら愛おしく思えるのだから不思議だ。
時には岩と岩の間に体を挟み、普段味わえない高度感を楽しんだ。

恐怖と高揚という、対照的な感情が胸の中でせめぎ合いながら、ここの景色だけはすべてを包み込んでくれているようで。

太陽は近く、雲は足元を流れ、空はただ青く澄みきっている。
岩の匂い、
耳に届くのは風の音と、自分の息遣いだけ。
その瞬間は、世界がとてもシンプルになる。

風はそこそこ強かったけれど、自分の足でここまで来たという実感が、何よりも心強かった。
まるで見えないシェルをまとっているような、不思議な自信。
そこから、ジャンダルム、ロバの耳、馬の背をひとつずつ越え、ついに奥穂高岳の山頂へ。
僕が心から好きな場所。
ここからの景色は、何度見ても飽きない。むしろ、長居してしまう。

不思議なことに、奥穂では毎回晴れる。
岳沢で雨に2日間足止めされたり、奥穂を出てすぐに降られたことはあるけど、山頂にいるときは、いつも空が味方をしてくれる。
相性がいいのかもしれない。
少しだけ歩けば、赤い屋根の穂高岳山荘が見えてくる。
晴れていれば、夕陽も朝陽もばっちり。特に9月の夕陽は格別で、
「寒い寒い」と言いながら、何時間でも見ていられる。

翌朝、もともと吊り尾根を使って降る予定だったが、久々に涸沢カールに行ってみようと思いザイテンを降っていく。途中思い出したかのように立ち止まって振り返り、「ありがとう」と声に出し、背を向けてまた、歩き出した。
